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各キャンペーンで募集した皆さんの素敵な応募作品をご紹介します。
長良川にまつわるストーリーを募集!
『清流長良川の鮎』エピソード
応募期間(終了済)/令和2年7月26日(日)〜令和2年10月31日(土)
皆さんの素敵な「長良川の思い出」応募作をピックアップしてご紹介します。※ご紹介の際、文章を校正させていただく場合があります。ご了承ください
鮎や川文化のおいしいストーリー
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aya.sk.photoさん 「大好きな鮎の塩焼き」
おじいちゃんが釣ってくれた鮎を数えるのが好きな息子。
ピチピチ跳ねるのは怖いけどいつも作業場を覗き込んでは、小さい鮎を見つけ「僕の僕の」とせがんできます。
いつも彼用の鮎は塩少なめに焼いてもらい、手づかみで頭から尻尾までバリバリ食べてます。そんな息子はもうすぐ3歳。
そろそろ大きい鮎も丸ごと食べれるかな?
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R.I.さん 「長良川花火と鮎」
岐阜市で生まれ育った私の夏休みの楽しみといえば、長良川の大花火大会です。
夕方になると、お袋は必ず鮎の塩焼きを作ってくれました。
花火の音を聞きながら食べる鮎の味は最高です。
急いで鮎にかぶり付き、友達と河原に向かう時のワクワク感は、59歳の今でも昨日のように思い出します。
今年は花火大会が中止になりましたが、孫を連れてお袋の鮎を食べに行く予定です。
いつまでも元気でいてくださいね、お母さん。
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H.Y.さん 「楽しみだった給食」
10年ほど前に食べた学校給食の鮎料理の味が、今でも忘れられない。
私は当時岐阜市に住んでいたので、2ヶ月に1回ほど鮎の甘露煮や、素揚げした鮎にあんかけをのせた料理が給食にでた。
ほんとに柔らかくて、骨まで食べられて、鮎の美味しさを初めて知った。
可能であれば、また食べたい。
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yotubatentouさん 「あゆおじさん」
子どもの頃、父の仕事の友人が趣味で鮎釣りをしていて、休日の早朝、木箱に山盛りの鮎を届けてくれました。
朝起きてキッチンに山盛りの鮎を見ると
「あゆおじさんが来た!」と大喜びしました。大人になった今、なんて贅沢な頂き物をしていたのだろうと思います。
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crystalsoul14さん 「親子鮎」
父が仕事先から鮎を貰って帰宅した。
黄金色の卵をずっしりと抱えた子持ち鮎。
今まで鮎には苦いイメージしかなかったが、母に焼いてもらうと豊かに甘味と滋味が広がり、長良川の鮎はかくも美味だったのかと感動しながらその命を頂いた。
未だあれを超える鮎には出会っていない。
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H.H. さん 「それぞれの長良川」
夫と夫の両親と、4人でヤナ漁を見に行った。初めて見るヤナ漁に、私のテンションは上がりっぱなし!
美しい長良川のせせらぎを聞きながら、たくさんの鮎料理も頂いた。義父も、義母も、夫も、それぞれの長良川エピソードが止まらない。県外から嫁いできた私は、羨ましくもあり、寂しくもあり……。
いつか私も胸をはって長良川の思い出を語りたい。きっと4人で見たこの日のヤナ漁が思い出の1ページとなることだろう。
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T.H.さん 「思い出の香り」
誰しも特に思い出に残っている香りがあるのではないだろうか。私の場合は香魚とも呼ばれる、鮎の香りである。あの爽やかで、他の魚種では味わえない香り。
初夏になると母が長良川の鮎で作ってくれた鮎飯。その香りは私の心の中に深く焼き付き、香りの原風景とも言える、思い出を形成している。そんな香りの原風景は清流長良川があってこそ生まれた。これからも美しい長良川を守って行きたい。
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A.I.さん 「あゆのしおやき」
ぼくはあゆのしおやきがだいすきです。
このまえ、おじいちゃん、おばあちゃん、おねえちゃん、おとうさんといっしょにあゆのりょうりをたべにいきました。
ぼくはしおやきを3つもたべました。
みんなといっしょにたべることができてとてもおいしかったです。
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てこどりさん 「鮎はもっちり」
兵庫県に住んでいて、18きっぷを使って名古屋に遊びにいくときは、行きか帰りのどちらかに、かならず岐阜駅で途中下車をする。
「のぼり鮎」という岐阜の銘菓が大好きで、それを買うためだけに下車することも多々あるのだ。
かわいい鮎のフォルムをそのままに、もっちりとしたぎゅうひをくるんだ和菓子。
地元でも、探せば似たようなものが買えたりはする。
だけどほんものがやっぱり、いちばんおいしい。
ほんものの魚の鮎も、もちろんおいしい。
香ばしく塩焼きにされた身は、ほくほくとしていて、香り高い。
塩は、たっぷりめのほうが個人的には好きだ。
そうして、塩のよく効いた鮎のあとには、すっきりと、ほのかに甘い「のぼり鮎」。
食べながら、またつぎも途中下車しようと考える。
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T.I.さん 「イワナの塩焼き」
郡上の釣り堀に出かけた。
釣ったばかりのイワナを自分で腹わた出してさばいて串にさして炭で塩焼き。
串をうつときは、魚の体をうねらせなければならないことを知らず、口から尾にかけてストレートにうってしまい。
案の定、焼いている途中、串からずり落ちる始末。
それでも一生懸命何とか焼いた。
子どもたちは「おいしい」と言ってくれた。
次はもっと上手に焼きたい。
それにしてもイワナのから揚げは抜群の味だった。
川の景色のストーリー
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akki_riroさん 「この日の空」
この日の空。最高でした。
ゆりちゃんが持ってきてくれたラムネを添えて????
浴衣の裾を膝くらいまで濡らして水遊びしたのは、この夏の素敵な思い出です☺️????✨
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Y.K.さん 「清流に託した願い」
夫が岐阜市に単身赴任していた頃、私はよく岐阜県に出かけた。
ある年の夏、願いを込めて岐阜に向かった。同僚のNさんが長年遠距離交際を続けている彼氏と別れそうだというのだ。Nさんは真面目な人だ。ぜひ結婚して幸せになってほしい。
夫の社宅にカップルを呼んで一緒に泊まってもらい、長良川沿いをドライブした。話しかけると明るく返事をするけれど、ぎこちない2人。
食事をしたら楽しくなるかな、と関市鰻屋さんで蒲焼きを食べた。ニコニコと元気な2人だが互いに話はしない。郡上まで車を走らせ、河原に降りた。清流に裸足で入っていった2人がやっと顔を見合わせて笑った。キラキラ光る水面で若い2人も輝いていた。
夜に見物した小瀬の鵜飼いで2人は手を取り合っていた。イケるね、と夫に目で合図した。でも残念なことに秋には2人は別れ、Nさんは職場を去った。
残念だったけど、私は瑞々しい若者を岐阜の清流の中で眺めたあの夏が忘れられない。
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K.S.さん 「長良川に育まれて」
私は長良川下流輪中の堤防脇の家に生まれた。幼い時、川はシジミや小魚を捕る栄養補給の源だった。川原に放牧された牛の傍らで寝転んで空を眺め、洪水のあと堤防に流れ着くクルミはどこからくるのか、上流へ上る船はどこまで行くのかと想像していた。電車もバスもない村で、長良川は外の世界へつながる夢の動脈であった。
まさか自分が結婚して長良川をさかのぼり、岐阜市に住むことになろうとは。小学生のころ遠足で訪れた時、清流が流れ、緑豊かな金華山が偉容を誇るこんな場所に住めたらどれほど良いかと思った。その大きな夢が実現した。
今、私は毎日のように川原を散歩し、鵜飼いの総がらみを橋から眺め、朝夕に美しいシルエットをなす金華山と岐阜城を見、幸せをかみしめている。子供たちは、川原の石を拾い、小魚を追い、虫をとり、花をつみ、自然の恩恵をたっぷり受けて育った。他県や、外国から来る私の友達は皆、口をそろえて、伝統と自然の中に暮らす私をうらやましがる。
今日もまた、私は愛犬をつれ、川原へ散歩にいく。伊吹山は実家の堤防から見たときと同じく、夕日に照り、紫色がかり、川面に映えて美しい。川では野生の川鵜が魚をとり、季節外れに鶯が鳴いている。
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みひさん 「私と長良川」
長良川のある岐阜県に住んでいるが、長良川は私の家からは遠い。高速に乗り岐阜県から隣の県へ長良川を越えていくと「さよなら」という気持ち、そして帰りは「長良川」の文字をみると心の中で「ただいま」という気持ちになるのが不思議だ。
我が家からは長良川は見えないが、近所の和菓子屋の旗が見える。『若鮎』と書いてある旗。これをみると夏が来たんだな……と遠い長良川を思い浮かべ甘い和菓子を食べるのが、私にとっての夏の恒例行事となっている。
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すてあどかさん 「岐阜の鮎」
「PRの仕方が下手なだけで、長良川が日本で一番の清流なんだよ」
今は亡き知人の言葉を思い出す。毎朝長良橋からながめるこの川が、日本一だったとは。
その知人は初めて会った時、「岐阜県人はPRが下手だ」と唐突に話しかけてきた。「これだけ良い川なんだから、長良川を積極的に売り込む方法を考えれば良いんだ」
ある夜、運転中の主人が「あの人、亡くなったらしいよ」と私に伝えた。暗い川面にゆらめく鵜飼の篝火を見ながら。私の頭の中には「長良川のこと」だけが残った。
お歳暮のシーズンだった。神奈川県の人に送るものを決めていた時、岐阜らしいものを贈ろうと思いついたのが「鮎の甘露煮」。
お礼の電話の中で
「岐阜は長良川の鵜飼が有名ですものね」
といわれ、長良川の鮎って結構他府県から知られているのかな程度に受け止めた。その年から毎年のお歳暮は鮎の甘露煮になった。
今でもお歳暮の時期になると、鮎と知人のことを思い出す。
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C.T.さん 「長良川と鮎と、高校3年生の夏」
私は長良川の上流で川を見て育ち、夏は毎日川で泳ぎ、魚を捕まえ、大型トラックのタイヤチューブで川下りを楽しみました。
高校生活中ずっと「田舎者!」と馬鹿にされました。けれど3年の夏休みの最終土曜、クラスの女子全員で公民館に泊まって、川でBBQをして(鮎の塩焼きも)、真っ暗な田んぼに星を見に行き、流れ星を見ました。花火をして、川祭りに参加しました。
都会育ちの仲間も大絶賛で、田舎の良さを満喫してもらえて、最高な気分でした!
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K.H.さん 「伊勢湾台風の思い出」
水害のニュースを見るにつけ、脳裏によみがえるのは、1959年9月26日の伊勢湾台風です。私が小学2年生、8歳のことでした。
「堤防が切れるかもしれないから、避難するように」と父に言われ、家族で岐阜市内にある伯母の家に身を寄せました。その夜は、強い雨が屋根を叩き、私は不安でなかなか眠れませんでした。
よく朝起きると、街なかでも水が10cmほど路面にあふれていて、長良川の決壊を知りました。
台風が収まり家に帰ると、家々の畳があちこちに立てかけられ、青空の下で天日干しされていました。
大切なものは2階に上げられ、被害は最小限でしたが、よく見ると1階の天井付近まで水が流れ込んだようで、その跡がくっきりと残されていました。父の言う通り避難して良かったとしみじみ思ったものです。
昨今の異常気象では災害による被害も大きく、早めの避難がますます望まれると思います。
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N.I. さん 「ふるさと」
「東京って落ち着かないね」と私が言うと、
生まれも育ちも東京都心部の友人がこんなことを言った。
「それでも旅行とかから帰ってきて久しぶりに東京のネオンをみると気持ちが落ち着くんだよね」
私が東京は落ち着かないと感じるのは、長良川の風景が私のふるさとの風景として心に根を張っているからなんだと思った。 -
岐阜のロードスター乗りさん 「愛車と長良川」
独身の頃は、郡上へ行くのによく高速代をケチって下道を走りました。ロードスターの屋根を開け、新緑の山々と長良川の清流を眺めながらのんびり流す156号線はとても気持ちが良いです。
家族ができ、独りで走る機会は減りましたが、今は息子と「あの人は何を釣っているのかな」などと話しながら、帰省の道中を楽しんでいます。
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瑠璃 さん 「クラスのみんなも……。」
中学の時、国語の授業で教科書には載っていない教材での学習がありました。
「来週からは教科書に載ってないけど”あいのなわばり”をやります。」
え?!そんな昼ドラかハーレクインみたいなの学校でやるの?
驚きつつ楽しみにしていたのですがそれはあいではなく”鮎のなわばり”。
でもクラスの何人かは”あい”だと思っていたとか……(笑) -
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ぴすこさん 「川と時間の流れる通学路」
中学への通学路は、長良川の堤防道路を歩き、橋を渡るものでした。川の横を歩く分かれ道のない20分あまり。そのまっすぐな道のりが、アニメのタイムマシンで通り過ぎていくような時間の帯に思えていました。
「今は学校は始まっていない、でも、いまここの位置にいるってことは、着いたら遅刻だな。未来が見えるわ……」と。
「川の上を飛んでいく鳥のように、自分も対岸へ斜めにピューンと飛んでいけたら、時間も飛び越えられるのに……」と、しょうもないことを夢想しながら、走ることもあきらめて、重い足を前に進めていました。中2のバレンタイン。私に勇気がなくて、好きな男子にチョコレートを直接渡せなかった翌日。
その男子がほかの女子と、橋の反対の歩道を歩いているのに気づきました。その男子の家は、橋を渡らなくてもいいはずなのに!
悲しくて、辛くて、でも分かれ道はなくて、見続けるしかない数分間の時間の帯。いまも車であの橋を渡るとき、あのほろ苦さをふと思い出して、懐かしくなることがあります。
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MYUさん 「川の秘密基地と子猫」
生まれたての子猫の兄弟を長良川の川原で拾ったのは、小学校低学年のときでした。
絶対に家でペットを飼わない家だったので、その小ささと温かさは初めての体験で胸が躍りました。
こんなにかわいいなら、きっと母も飼うことを許してくれるはず。
しかし夕飯の支度をしていた母は激怒して「いますぐ捨ててこい!」と私を家から追い出しました。
どうしたらいいかわからず、泣きながら会う大人に飼ってくれないかと頼んでは断られ、川原まで戻ってきたころには日が暮れていました。
──そうだ、川原に秘密基地をつくって、こっそり飼おう! よくアニメであるじゃない!石や木や草で小さなドームを作り、子猫にハンカチをかけました。
翌日は土曜。早朝にパンと牛乳とありったけのハンカチを持って川原に行くと、子猫たちは冷たくなっていました。
うそでしょう? 日の当たる堤防の上なら、温かくて目を覚ますのじゃないかな。ねぇ、いま、小さな声で鳴かなかった?
通りがかったおじさんが「カラスに食べられてしまうよ」というので、泣きながらようやくあきらめた私は、小さなお墓をほって、ハンカチをかけました。(※子猫は人が育てるのは難しく、親が近くにいる可能性が高いので拾ってはいけないそうです。数十年前の私に教えたい。いまではいろいろ情報もありますが、昭和の時代にはこんな話がよくありました)
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T.I.さん 「長良川鉄道」
小学校の卒業旅行で親友2人と一緒に長良川鉄道で1泊2日のスキー旅行に出かけた。
長良川鉄道に乗ったのはそれが初めてだったと記憶している。
そのころの私にとってはこの上ない大冒険で、いまでも忘れられない大切な思い出。
今でも車窓からの雪景色が目に浮かぶ。 -
郡上人さん 「長良川鉄道」
高校時代、長良川鉄道に1時間揺られながら通学していた。長良川鉄道は清流長良川沿いに走り、四季折々の自然が見られ、絶景だと言われている。とはいうものの、当時は受験勉強に追われ、列車では参考書を開きつつも、心地よい揺れに負ける日々で、車窓からの眺めを楽しむ余裕は無かった。
さらに、休日には観光列車になり、タイミング悪く乗ってしまうと、長良川を横切る度に徐行運転となりさらに時間がかかる。当時は早く到着しないかなと内心思っていたが、いまではそんな絶景が見られる列車で通えたことを誇らしく思える年齢にようやくなった。
今度は観光列車をわざと選んで乗ってみよう。心地よい揺れには負けないように。
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A.K.さん
高校時代、野球部に所属していた私は、「文武両道」のもと、厳しい指導を受けていました。テストで「赤点」を取ると、野球の練習に参加させてもらえず、校内外の清掃活動を行うのだが、よく、長良川の河原のゴミ拾いをしていた思い出があります。時々、ボーっと川の流れを眺めて、その時に清流長良川の美しさをよく知る事ができました。
川を泳いだストーリー
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E.M.さん 「長良川で泳いだ思い出」
小学3年生の頃、夏休みに長良川の川遊びで水泳を覚えた。学校のプールも楽しくて良いのだが、友達付き合いが苦手な私は、どこか冷めたところがあった。
水面に飛び跳ねる鮎のうろこに陽光が反射して、キラキラと輝いている長良川が見えてくると心が躍ったものだ。
夏休みの始めは長良川の淵で戯れる程度だったが、夏休みが終わる頃には広い川幅をクロールで横断できるまでに上達し、いたくうれしかったのを覚えている。
水中はとても澄んでいて、足で川底を蹴ると砂が舞い上がり、その間を小鮎が足をくすぐるように、すばしっこく泳ぐのが見えた。
今のように紫外線がどうのこうのという知識もなく、その頃の私たち子どもは真っ黒になって暗くなるまで遊んだ。
夏休みを終えて2学期を迎える頃に日焼けをしていないと、肩身が狭いぐらいであった。
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T.S.さん 「魚と遊んだ長良川」
私が子どもだったころ、長良橋のやや上流は賑わいのある、立派な河川水浴場でした。
夏には海水浴場と同様に、川原にヨシズ掛の休憩所が建ち並びました。泥や草の生えてない石川原なので、水も澄んできれいでした。男子はほとんど褌姿で、護国神社側から長良川ホテルに向かって泳ぎぎきることが一人前の条件でした。「今日は何往復した」と自慢しあったものです。
泳ぎに自信がない私は、一日一度だけ挑戦と意を決して挑みました。
本流に入ると水温が急に冷たくなり、波が顔に当たり、どんどん下流へ流されてしまい不安になります。ホテル側の堤防際は水深があり足がつかないので、何としても護岸に到達しなくてはなりません。必死でした。
川には魚がいっぱいいて、潜水していると鮎が顔の前を横切ることもありました。
川原に石を並べて池と堤を作り、岸辺に群れる小魚を手拭いで追い込んで時を忘れて遊びました。
鵜飼い見物の遊船が引き綱に曳かれて上って来るのを合図にやっと家へ帰ったものです。
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コゾさん 「川泳ぎ」
小学生の頃、自営業だった我が家は夏休みの1日だけ、岐阜城の麓にあったプールに行くのが一大イベントでした。
ある年の夏、いつものプールに行くと何故だかお休み……。ショックをうけている私と兄を見兼ねた両親が、隣の長良川に連れて行ってくれました。
隣の知らないお兄さん達と仲良くなり、一緒に遊んでもらったのを覚えています。
初めて川で泳ぐ高揚感と、開放感、青い空をいつまでも忘れません。
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小玉すいかさん 「小瀬川」
小学校に入る前くらいになりますが、おばあちゃんに今の関観光ホテル前あたりに川遊びに連れていってもらっていました。いつも年上のいとこといっしょで、いろんなことを教えてもらいました。
そのひとつに、遊びに行っていた川の名前が、小瀬川(おぜがわ)と教えてもらいました。
小瀬地内を流れる川なので、そう言っていたんでしょうが、長良川だとわかるまで時間がかかりました。
50年たった今でも、関観光ホテルの前の川は小瀬川(おぜがわ)と言いそうになります。 -
T.I.さん 「昔遊んだ川」
子どもの頃、従兄とよく遊んだ長良川の支流。祖父母の家のそばを流れる小さな川。
岩の下に網を入れてごそごそやると、雑魚ときどき鮎が取れたりもしました。
大人になり、数十年ぶりに今度は子どもたちを連れて遊びに行きました。
川の見た目は変わらずとても懐かしかったのですが、当時と比べて水量は少なく、少し泡が浮いていたりして、昔みたいに水遊びをすることはできませんでした。
魚も見当たりませんでした。
色々と環境が変わっているんだなと少しさみしく感じました。
生き物・釣りのストーリー
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ayu_mesh_shさん 「中高生鮎友釣り選手権」
(郡上中高生アユ友釣り選手権」は、全国初の学生が運営する、学生の為の鮎釣り大会です)
長良川から鮎が上ってきてくれるおかげで、中高生鮎友釣り選手権を開催できています。
この大会を楽しみにしてくれている選手だったり、応援してくれる地元の方だったり、とても多くの出会いをくれた大会です。
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U.I.さん 「お父さんと鮎」
小学生の頃、父はよく休日にひとりで竿と魚籠を持って長良川へ鮎釣りに行きました。ときには私を連れて出掛けたのですが、女の私は釣りに全く興味がなく、河原できれいな石を集めて時間をつぶしたものです。
ですが、退屈してばかりではありません。
清流長良川をやさしく吹く、一陣の涼風や草のこすれる音、遠くで聞こえる虫の声。
これらを聞きながら過ごすひと時は、本当に時間がゆったりと流れていました。
今でも鮎釣りをしている人を見ると、胸が詰まってきます。お父さんが頑張って釣ってくれた鮎、おいしかったよ。
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E.M.さん 「私と長良川の出会い」
子どもの頃、製陶所が多くある私の町は高度成長期で川は白く濁っていましたが、川と山で毎日楽しく遊びました。父や近所の人達は大きな竿を持ち、バスに乗って鮎釣りに出かけていました。
大人になって、初めて父から鮎釣りを教えてもらったのが長良川でした。鮎釣りを覚えてからは、その醍醐味と面白さは一生の趣味となりました。長良川の中央から上流までが私の漁場でした。後年、川の様相が変わり寂しく思いました。
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さくらさん 「父親と川で」
幼少のころ父親と、川で、魚つり、泳いだり、犬と遊んだり。思い出がつきません。
父親が亡くなり早や半年。
夏が来ると思い出します。
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